あすみが丘は東京都心の約65km南東にあり、成田国際空港からは約40km南に位置する所にあります。
この地は1980年代の初期の頃にはまだ山地で近辺の人たちからは「千葉のチベット」と呼ばれていたほどの辺鄙な所でした。 しかしこの15年から20年ほどの間にさる大手開発業者によって新興住宅地として開発され、現在ではまだまだ自然が残る比較的質の高い 住宅地としての評判が定着してきており、約7,000世帯、21,000人の住民のベッド・タウンとなっています。
地域内には教育機関としては市立小学校が3校、市立中学校が3校、県立高等学校が1校設立されており、 地方銀行の支店が3箇所、 郵便局も本店を含め3箇所あり、商業施設も中規模ショッピング・センターが2箇所とその他専門店も数々進出してきており、 街としての体裁も徐々に備わってきております。
この街の概念的な位置関係は下の地図の通りです。 地図は+・ーをクリックして拡大・縮小も出来ますし、ドラグして移動も出来ます。
あすみが丘は1980年代に開発された新しい街ですが、もともとこの地域の歴史は非常に古く、 昭和の森近辺には旧石器時代の遺跡が数多く発掘されています。 現在土気高校の校舎が建っている所 には舟塚古墳という長さ40メートルに及ぶ大きな前方後円墳がありました。 また、土気高校から昭和の森の第二駐車場に向かう「あすみが丘東」住宅造成地からは円墳が多く出土しており、 古代この地で文化が栄えていたことが伺えます。 大化の改新のとき、総の国は上総と下総に分かれ、境にある土気周辺は、その時から上総国山辺郡になりました。 上総の国の国府、国分寺は市原にあり、国分寺は大和朝廷の影響を受けていました。 国府・国分寺に近い土気にある小食土廃寺もその影響を受けたものでした。あすみが丘にはその瓦を焼いた窯のあとが出土しています。 また、万葉集の東歌には、山辺郡から出征した防人の歌が載せられています。 平安時代には、平忠常がこの地に大椎城を築いたと伝えられています。この人は平将門の叔父良文の孫にあたり、 「平忠常の乱」を起こし朝廷を困らせたことが「今昔物語」に書かれています。 その後、大椎城は千葉氏の祖である千葉常重が1126年に亥鼻城に移るまで、居城にしていたと伝えられています。 戦国時代で特筆すべきは、千葉の地方史を彩る土気城主・酒井氏の活躍と酒井氏によって行われた「七里法華」 と呼ばれる日蓮宗への改宗命令であります。現在で土気周辺の寺は全て日蓮宗です。 江戸時代には土気は旗本領でありました。家康は鷹狩りのために、東金に御殿を置いて御成り街道を通って狩に来たものでした。 土気の一部もその鷹狩り場に含まれていました。古学の荻生徂徠の縁の地が昭和の森の近くにあり、 本納との間を行き来していたと伝えられています。 明治以後は明治2年の藩籍奉還で宮内(みやさく)県(県庁は大網白里町宮谷)、明治4年の廃藩置県で木更津県(県庁は木更津)となり、 千葉県になったのは明治6年です。 もう少々詳しい土気近辺の歴史に就いてはPC版『あすみが丘ふるさとエクスプローラー』に載せてありますのでご覧ください。