あすみが丘の自然と環境

あすみが丘の自然

村田川の源流

小山町の下流・板倉町から見ると、村田川の源流は3つあります。

あすみが丘の人たちが一番よく知っているのは、昭和の森の「湿生植物園」からの流れです。(以下、《昭和の森源流》と呼びます)。

次は、小山町と板倉町の境あたりに南の谷あいから流れ出て、小山町からの流れと一緒になる流れです。 二つ目の源流は外房有料道路の下を抜けて茂原市の大沢地区、真名カントリーの近くまで遡ります。(以下、《大沢源流》とよびます)。

三つ目は長柄町・茂原市・市原市が接する「長柄ふる里村」を源流として、市原市金剛地を通って板倉町に至る流れです。(以下、《長柄ふる里源流》と呼びます)。

《昭和の森源流》

 昭和の森は3方向に分かれる珍しい分水嶺になっています。

 まず、昭和の森の展望台に行って、ここに降った雨は何処に流れるか考えてみましょう。芝生や林に降った雨は地表に浸み込んで地下水となり、湧き水となって流れ出ています。一番分りやすいのは、展望台の下にある「小中池」に流れ、小中川を通って、太平洋岸の九十九里浜に流れているルートです。もう一つは「あすみが丘東」から北への流れです。この流れは鹿島川となって、若葉区・四街道市・佐倉市を通って、印旛沼経由で利根川に流れています。

 最後のルートは、早春にカタクリの花が咲き、梅雨の頃には花ショウブとゲンジボタルが楽しめる「湿生植物園」の湧き水になっています。これが、これからお話しする村田川の源流の一つです。最後には、千葉市と市原市の境で東京湾に流れ込みます

 「湿生植物園」から山裾を水路が流れ出ています。その水路に堰があり、流れが2つに分かれています。大部分は「湿生植物園」の下の「下夕田(しもんた)池」に流れています。しかし、オーバーフローした一部は予想外の方向に流れています。辿ってみると、大網白里町側の「小中池」に向かっています。つまり、この堰は流れを東京湾と太平洋に分けています。堰の位置は「下夕田池」のいちばん奥の白鳥が休んでいるあたりです。

「下夕田池」から「水辺の郷公園」を通って、小山町に

 「下夕田池」の水は茂原に抜ける自動車道の下を通り、「水辺の郷公園」に至ります。この公園は調整池を兼ねた公園で、渇水期には流れに水垢がたまり、あまり美しいとは云えません。あすみが丘8丁目からの雨水も流れ込んでいます。ただ、あすみが丘と反対側の山裾を流れる「ホタルの流れ」というセセラギはホッとする雰囲気があり、お勧めです。

村田川の一つの源流である下タ田池
水辺の郷公園
あすみが丘と反対の山裾を流れる小川は綺麗だ
「ホタルの流れ」というセセラギ

 「水辺の郷公園」を過ぎると、葦原の間に数枚の水田が現れ、田んぼの間を村田川の源流が流れています。続いて13戸の小山町の小さな集落に入ります。集落の前の埋め立てた畑には四季それぞれの野菜や花が植えられている風景が開けます。集落の反対側の台地には森に覆われて見えませんが、セブンハンドレッド・ゴルフ場があります。

 夏のある日に散歩をしていた時、蛇を掴んだ鳥が谷を横切って行くのを見たことがあります。鳥に詳しい人に聞くと「サシバでしょう」ということでした。オオタカもいるそうです。あすみが丘に隣接して、こんなに自然豊かな散歩道があります。

古代米作り、“ビオトープ”、アザミ谷津

 集落の中を進んでゆくと、あすみが丘9丁目に上がる自動車が通れる山道があります。それを過ぎると、まもなく反対側の台地に登る自動車が通れる舗装した道があります。山の傾斜には日枝(ひえ)神社の急な階段があります。このあたりは、村田川の小さな流れは暗渠になっています。その暗渠の上を上流に少し歩くと、小さな水田と水溜りに出会います。あすみが丘の人たちが作っている古代米の田んぼと“ビオトープ”です。“ビオトープ”は多様な昆虫や水生成生物が生息・生育する空間を再生しようとする試みです。水源はゴルフ場側の台地からの湧き水で、水の湧くあたりは芹田が広がっています。

暗渠になっている村田川
多様な昆虫や水生成生物が生息・生育するアザミ谷

 暗渠の上を舗装した道に戻ると、道の右側に蓮池があります。そのすぐ先の山際を右に入ると、谷あいに1畝(30坪)あまりの小さな田んぼが5、6枚現れます。アザミ谷です。千葉市のパンフレットの分類による、もっとも伝統的な姿を留めており、千葉市環境保全推進課の分類では、「谷津健在・圃場未整備型」谷津田と思われます。アザミ谷からいったん出てきて、村田川を下流のほうに少し進むとゴウシ谷があります。谷津田は保たれていませんが、谷から流れ出る水量は多いようです。ゴルフ場の池にでも繋がっているのでしょうか。アザミ谷とゴウシ谷を併せて、千葉市の谷津田保全協定の対象候補地域になっています。あすみが丘9丁目の「くすのき公園」から山道を降りた所にある小山町集会所の向かいです。

 この二つの谷津に挟まれた小高い部分が「産廃処分場予定地」となっており、これが出来ると谷津田は汚染され消滅しないかと、心配されています。あすみが丘のすぐ隣です。

 小山町集会所の少し上流から、村田川の流れは地表に出てきます。子供の頃を思い出し、網を入れたくなりましたが、金網で囲われ近寄れません。ここに限らず、ずっと下流の越智町まで、村田川に入って遊べる所はなくなっています。

 後で述べるように3つの流れを比較しますと、流域面積や水量から見て大きいのは《長柄ふる里源流》です。《昭和の森源流》の流れは大きくありません。

 しかし、集落のすぐ横を流れるこの流れは、小山町の人の生活に密着し、あすみが丘の住民にとっても、憩いの場でもあります。人との密接な触れ合いがこの流れの特徴です。

あすみが丘在住の或方によって描かれたイラスト地図

ー 長柄ふる里村からの流れ ー

 最初に、村田川には3つの源流があることをお話しました。各々を《昭和の森源流》、《大沢源流》、《長柄ふる里村源流》と呼ぶことにしました。また、《昭和の森源流》について、詳しく述べました。ここでは残りの、小山町と板倉町の境あたりに南の谷あいから流れ出て、小山町からの流れと一緒になる流れ《大沢源流》と市原市金剛地からの流れ《長柄ふる里源流》の2つについてお話します。

ともに、「長柄ふる里村」とその隣の茂原市の「真名カントリー」の近くから流れ出ています。

茂原市大沢地区からの流れ《大沢源流》

 小山町集会所を過ぎたあたりで、村田川の左岸(下流に向かって左手)から直角に流れてくる谷あいがあり、かなり広い田んぼが広がっています。秋には美しい黄金色の田んぼに変わります。田んぼ自体は整備されており、千葉市環境保全推進課の分類では「谷津健在・圃場整備型」谷津田だと思われます。土地の改変は少なく、水田の圃場整備は進んでいます。水源は横の山からの湧水ではなく、2キロほど上流の外房有料道路をくぐって、さらに1キロほど遡った茂原市大沢地区で、真名カントリーの山裾の近くです。

この《大沢源流》の流域には人家はありません。

 この谷あいの水が小山町からの流れと合流する地点から、村田川の水量は豊かになります。水はきれいで、ルリ色をしたカワセミが川面の樹木に覆われたトンネルの中を飛んでいましたので、小魚がいるのでしょう。カワセミは越智町でも見かけました。「下夕田池」でも「創造の杜」でも、ときたま見かけます。

長柄町ふるさと村からの流れ《長柄ふる里源流》

 板倉町宮下で合流する流れに沿って、本納に向かう県道を遡ってみましょう。あすみが丘から長柄ふる里村に行く道です。五井への別れ道がある「火の見」までは整備された田んぼがあり、水量の多い流れの両岸はコンクリートで固められています。外房有料道路板倉インターの入り口にある橋の下には10センチくらいのハヤらしい魚が十数匹確認できました。

 「火の見」の少し手前の道端に記念碑があります。平成13年に立てられたもので、「大地創生」と大書され、「金剛地土地改良区竣工記念」と当時の市原市長の署名入りで書かれています。碑文には、「形の整わない細かく軟弱な湿田地帯の土地改良を行った」と書かれています。かつては、ここらあたりも圃場未整備型の谷津田だったのでしょう。

 さらに「火の見」から県道21号沿いに遡ると、茂原市との境近くまで良く整備された田んぼがあり、川は田んぼの脇の山裾を流れています。このあたりには青鷺がいました。えさの小魚でもいるのでしょうか。

 県道が山に登りかけた途中から右にそれて、川沿いにたどると、まもなく葦や雑木で荒れた谷津田にぶつかり、細道もなくなり川は遡れなくなります。行き止まりから上流をみると、僅かですが長柄ふる里村の建物が見えます。私たちの仲間の一人は、やむを得ず歩いて上ってみました。すると長柄ふる里村のトリニティ書斎(タワー)の裏手に出ました。地図で確認した地形から見当をつけて、エアロビクスセンターの近くに行ってみました。すると、意外なことに駐車場脇の釣堀池に出会いました。この池は村田川の上流だったのです。エアロビクスセンターの駐車場脇の釣堀池をさらに谷津田に沿って、数百メートル遡ったところが、村田川の源流の一つのようでした。その先は、真名カントリーのコースにぶつかっているので分りませんでしたが、コース内の池に繋がっているかもしれません。

遡るとエアロビクスセンターの釣堀池に辿着きました
その釣堀池の更に上に谷津田が続いていました

三つの流れを比較すると

 《昭和の森源流》、《大沢源流》、《長柄ふる里源流》の三つの流れを合わせた村田川の上流の流域面積はかなり広いことが分ります。2年前の大雨の時、下流の大椎橋が流れ、越智町の護岸が崩れました。上流に降った雨は大きな流れになることがあるのでしょう。

 流域面積や流れの長さから見ると、《長柄ふる里源流》から金剛地を通る流れが村田川の本流と考えられます。この流域には懐かしい里山集落の風景が見られます。一方、大沢からの流域には、水田は多く見られますが人家はありません。

 《大沢源流》、《長柄ふる里源流》の流域は、あすみが丘に近い《昭和の森源流》とは違った顔をしています。                

 最後に村田川の中流域のお話をしましょう。

― 板倉町・大椎町・大木戸町・越智町を通って瀬又まで ―

 プラザの筋向いの看板には、あすみが丘および小山町以外の多くの自治会名が出ています。今回は、これらの地域と村田川の関係について触れたいと思います。

 まず、小山町集会所から下流の板倉町に向かいます。

千葉市板倉大椎土地改良区竣工記念の碑

 小山町から板倉町の県道に出たところの、山崎イチゴ園の売店の近くに、「千葉市板倉大椎土地改良区竣工記念の碑」があります。水田の圃場整備がなされたのは、昭和63年~平成7年と書かれています。あすみが丘の開発と並行して行われています。

 地元の人に聞くと、土地改良が行われる前は、ここら辺りの田んぼは細かい区画が段々になっていたそうです。それをトララクターによる機械化に対応できるように、大きな区画にならしたそうです。水田への用水の供給はすべてポンプ・アップになっています。この地域には3ヵ所のポンプ小屋が見えます。冬は水を落として乾田になっているので、トラクターも動きやすそうです。しかし、このような水田は小魚にとっては住みよい生態系ではありません。小山町の人に聞きましたが、小山町の谷津田は、以前は腰まで漬かって田植えをしていたようです。人に辛い田んぼが小魚には住みよい場所なのでしょう。

大椎町集落から越智町まで ‐農業用水‐

 あすみが丘から工場団地に向かう自動車道路が、あすみが丘から離れるところに、新大椎橋があります。橋から下をみると、水色に塗られた水門のあるのに気付かれるでしょう。この水門は、村田川の左岸の大木戸町から越智町内会館までの水田に水を供給するのに作られています。新大椎橋の上流の小さな水田には小さな水揚げポンプが使われています。あすみが丘5丁目下の小さな田んぼには、田んぼ1枚ごとに小さなポンプ小屋があります。村田川に沿って、越智町のほうに行くと、酪農農家が2軒ある懐かしさを覚える里山風景に出会います。そこにもポンプ小屋があります。70歳代のお年寄りは、「村田川のお陰で楽をしている」と話していました。この水がなかったら、労働がきつい落花生作りをしなければならないと。越智町の大橋から、「はなみずき団地」に向かう村田川の両岸にも大きなポンプ小屋があります。

 下流地域の人たちと村田川との最大の付き合いは農業用水としての利用です。源流の小山町で水を汚すようなことは許されません。農業用水の3分の2が村田川の水で、残りが右岸の大木戸台団地の下にある八幡池、左岸の大木戸橋を渡った左手の山間にある溜め池からの水です。また、一部ですが工場団地に向かう自動車道の大木戸西澤橋の下にある谷津田では、湧水が使われています。

大椎町集落から越智町まで -魚類と竹やぶ‐

 次に村田川の魚類についてお話をします。昔はウナギも獲れたという川を覗き込んでみても、なかなか魚影を見つけることが出来ません。せいぜい、汚染にも強い放流されたコイを大木戸町の大木戸橋、越智町の大橋付近で、見る程度です。ほかの魚はいないのでしょうか。以前、水門の上流の大椎町で魚類調査をしたことがあります。そのことを2年前の「あすみ」で報告しました。そこでは、ヨシノボリ(ゴリ)、タモロコ、モツゴ、タイリクバラタナゴがいることを確認しました。水門から取り入れた水路にはザリガニが住んでいます。まだまだ、棄てたものではないようです。まだ、復活の可能性があります。大事にしたいですね。

 一度、魚類や水生昆虫の調査したいと思って、適当な場所を探してみましたが、なかなか川に降りられる場所が見つかりません。お年寄りたちが子供の頃は大木戸橋近くの淵で泳いでいたそうですが。今の大椎町・大木戸町・越智町の村田川は真竹の竹やぶに囲われ、人を寄せ付けません。ただ、所々に竹やぶの中に電線が入っています。そこが水揚げポンプ小屋です。以前は、筍や竹材は農家の大切な副収入になり、竹の皮は食品包装用に売られ、子供たちの小遣い稼ぎになったそうです。今は放置され邪魔者扱いになっています。この竹やぶがと続く様子が衛星写真にもくっきりと写っています。

瀬又清流会

 自動車で工場団地を通って鎌取に向かう途中、瀬又の交差点の横にコンビニがあります。コンビニに車をとめ、近くの新瀬又橋またはその下の瀬又橋から村田川を見ることが出来ます。瀬又清流会の「コイを放流しています。採らないでください」と書いた看板があり、ベンチがあります。このあたりで村田川は5月にはたくさんの鯉のぼりが川を跨いで、瀬又町だけでなく、グリーンヒルや萩の台の市民たちとの交流の場になっています。

 村田川はこの後、番場・草刈を通って、千葉市・市原市の境を東京湾に注いでいます。その昔は、上総の国と下総の国の境でした。             

 (文責:谷津田保全グループ)

谷津田と里山

 ところで、谷津とは何でしょうか? 谷津田とは何でしょうか?

台地や丘陵地の下に出来た浅い谷が谷津で、豊富な湧水を利用して、昔から稲作が行われてきました。それが谷津田です。湧水、湿田、土水路などの湿地環境とともに、多彩な生態系が維持されているのが特徴です。

 谷津田は幹線道路を走っていても見つけることはできません。脇道に入り、自動車がやっと通れる細道を進み、さらに歩いて奥に行った所で出会えるのが普通です。都市化、水田の整地などで谷津田が減少しているとはいえ、探して回ると結構たくさんの谷津田に出会います。以下、私たちの体験を中心にお話したいと思います。

都市化、水田整備、耕作放棄、不法投棄などで谷津田は破壊されてきました

 千葉市のパンフレットによると、昭和30年代には130ヵ所あまりの谷津田があったそうですが、現在は60ヵ所あまりに減っているそうです。

 谷津田破壊の第一の要因は都市化です。緑区についてみてみましょう。大規模開発がなされた鎌取周辺ではたくさんの谷津がなくなってしまい、いまはほとんど残っていません。緑区の村田川中流・上流地域では、越智はなみずき団地とあすみが丘でもかなりの破壊が行われました。

 あすみが丘では、開発前はあすみが丘プラザの近くまで谷津田があったと聞きます。あすみが丘5丁目と6丁目では、谷津が埋められ整地された跡があるそうです。あすみが丘プラザの展示室にある開発前後の航空写真をみると、その様子がよく分ります。

 第二の要因は水田の整備です。あすみが丘南のバスの車庫の近くに水田の整備がなされたことを記念する石碑があります。同じような石碑が隣の市原市金剛地にもあります。「小さな区画に分離された段々の水田をトラクターが使える機械化農業に適するように、整地された」ことが書かれています。この変化の様子もプラザの展示室の航空写真で見ることができます。整地前の水田は小さな不定形の段々の水田がたくさん見られる伝統的な谷津田であったことが分ります。村田川と水田の間は水と魚たちが行き来しており、豊かな生態系が保たれていたのでしょう。一方、農作業の苦労が偲ばれます。いまでは、トラクターで耕作がなされ、夏は村田川からポンプアップされた水で潤され、冬は乾田になっています。谷津田特有の生態系は残っていないようです。

 第三の要因は放棄され葦原にかえってしまった谷津田です。水田の整地が進められなかった谷津の奥にある谷津田です。多くは人家から離れて、森林の陰になり、収穫量も少なそうです。腰まで入る湿田が多く、農作業も大変だったのでしょう。農村地域の高齢化もこの谷津田の放棄につながっています。下大和田、市原市の金剛地、茂原市の大沢などの谷津の奥にはこのような谷津田が多くあります。もう再び水田に戻すことは不可能と思われます。

イラスト・マップを見て身近な谷津田に行ってみましょう

 谷津田の破壊は進んでいます。しかし、私たちの周りに、どっこいまだ残っている谷津田があります。イラスト・マップを片手に、身近な谷津田を訪ねてみましょう。


あすみが丘在住の或方によって描かれたイラスト地図

 まず、あすみが丘に一番近い谷津田は小山町です。中でも「アザミ谷」はよく保存されて谷津田で、夏ならオニヤンマの羽化にも立ち会えるでしょう。谷津田保全協定締結も間近です。ここはハイキングの途中に立ち寄ることが出来ます。ただ、夏場はマムシには注意しましょう。また、私有地ですので荒らして迷惑がかからないようにしましょう。近くでは、あすみが丘の人たちが古代米を作ったり、ビオトープを作ったりして、谷津田保全に協力をしています。ぜひ地域住民とあすみが丘住民の協力で保全に努めたいものです。

アザミ谷の最上部は自然の芦原になっている